<Artist Interview vol.5>
ムカイヤマ達也・工藤春香・林雅子・武田海
– Exhibition “Limited Vision” in Poland

05 Nov 2018

10月18日(木)より、ポーランド・ヴロツワフで、現代的ドローイングに焦点を当てる日本-ポーランド交換展示「Limited Vision」が開かれている。2017年に開催された日本ポーランド交換グループ展示「DOUBLE LINE」に続き、日本ポーランド交換グループ展示の第二弾として開催される本展覧会。共同の取り組みとしては、3年目である。
今回、この展覧会に出展する、ムカイヤマ達也 氏、工藤春香 氏、林雅子 氏、武田海 氏の4人のアーティストに話を訊いた。

ポーランドときいて、どんなイメージを思い浮かべるだろうか。

インタビューを行うまで、ポーランドという国に対するイメージは曖昧としたものだったと言わざるを得ない。
頭の中で思い浮かぶキーワードを並べてみても、5つ、6つ見つかる程度だった。
ただ知らないだけなのか、情報が入ってきていないだけなのか、そもそもなぜ知らないことが多いのか・・・多くの疑問が未解決のまま臨んだ今回のインタビュー。なぜ、「日本」と「ポーランド」なのか?アーティストの思惑は?対話を通して意識せざるをえない、日本人というアイデンティティ。
展覧会の概要から作家の意図まで、様々な切り口で深く掘り下げる。

<左から:ムカイヤマ達也、林雅子、工藤春香、武田海>
 

K: まずはポーランドとの取り組みとの経緯を教えていただいてもよろしいでしょうか?

ムカイヤマ: はい。そもそもの経緯としては2016年からポーランド側の企画で始まったものでした。
欧州文化首都*制度というのがあって、2016年にポーランドのヴロツワフという都市が選ばれたことがはじまりです。そのとき、国際ドローイングフェスティバルというのが行われて、ART TRACE Gelleryの坂光敏さんが招聘され、坂さんが1カ月ライブドローイングと個展を行いました。もともと、そのプログラムが継続的な交流を行うということになっていたので、2017年は、ART TRACE Gelleryのアーティストと交換で行うということになり、それが2017年後半から2018年頭まで行われた、「DOUBLE LINE」という展覧会でした。

(*欧州文化首都:欧州連合 (EU) が指定した都市で、一年間にわたり集中的に各種の文化行事を展開する事業)

<2017年 DOUBLE LINE展>
 

その時は、ポーランドのプロジェクトディレクターのPrzemek Pintal(プシェメック・ピンタル)と、キュレーターのDaniela Tagowska(ダニエラ・タゴフスカ)が主導し、ART TRACE Gelleryの作家の中から日本から7人、そしてポーランドから7人選んで交換展を行うことになりました。そして、継続した交流を目的とし2018年も行うことになりました。2018年は少しメンバーを減らして、DOUBLE LINE展の時の有志と外部の作家も招聘することになりました。

ちょうど参加してくださるアーティストの、丹羽良徳さんの作品収蔵先であるヴロツワフ現代美術館(MWW)が開催する、彼の作品も含めたコレクション展が、同じタイミングで開催されることになります。今回の特徴としては、以前は日本人とポーランド人を分けて展示していたのを、どちらも混ぜて行うことです。交換展ということで、日本では7-8月に行われました。


<展覧会 ビジュアル ※背景の作品は工藤春香によるもの>
 

K: ポーランド側の注目のアーティストはいますか?

ムカイヤマ: 個人的にはAnna Kołodziejczyk(アンナ・コウォジェイチック)です。廃墟や古い建築物などをモチーフに絵を描いているアーティストですが、そうした建築物の内側の壁なども作品の一部にしています。彼女は作家だけではなくてキュレーションもしています。

ポーランドができて1000年くらいなんですが、「ポーランド」として国がそこにあったことがそのうち400年くらいしかない。ヨーロッパの歴史を見るとよくわかる通り、常に外部からの侵略を受けていて、「ポーランド」としてその場所に国があったことってほとんどないんですよね。
そうゆう経験をした人が彼女たちのおじいちゃんやおばあちゃんたちにいて、普通に会話をしていても、この町のここで爆撃があって、ここでナチがなにをして、とか教えてくれるんです。

工藤: 一緒に取り組みをしているのは、大体30歳くらいのアーティストが多いけど、1945年の写真集で戦争の場所を見せてくれたり、普通に車で移動しても、ここでは何があったとか、いろいろと語ってくれるんです。戦後がまだ過去ではないという感じ。あと、民主化されたのが最近。

ムカイヤマ: そう、民主化が1989年。第二次世界大戦が終わった後は、ソビエトの衛星国だったし、自由になったのが最近なんですよね。

林: 東欧美術の研究家によると、検閲が多い中でうまく表象を使って表現していたとか。いわゆる現代美術の西欧とかアメリカとかとは違った文脈があるそうです。

K: なるほど西ヨーロッパとは全く別の文脈があるんですね。

ムカイヤマ: ポーランド大使館にこの展示を紹介するためにいったら、ポーランドの歴史・文化を書いた分厚い冊子をもらったんですけど、そこに美術の定義が書いてあるんですよ。
結構日本でも「そもそもアートってなんだ?」っていう議論になるじゃないですか。
でもそこにはちゃんと定義が書いてある。

例えば、ドイツとロシアに占領されて政府がロンドンに移ったとき、国としてはそこにポーランドはなくなってしまうんですよね。そうしたとき、アーティストや作曲家や詩人は何をするべきとされていたかというと、「ポーランドがある」「ポーランド人というものがいる」ということを残すために存在している、ということを明確に言っていたそうですね。民族の記憶を継承するというか。

工藤: そう。それが第一の目的。哲学的なことよりも、保存のために。

ムカイヤマ: それを土台にして、ポーランドの文化がのっかっている。
それは、いつなくなっても仕方がないという危機感があったからだと感じます。

K: なるほど。切実な理由ですね。

ムカイヤマ: でも、かといって風土というかそこに住んでいる人は、恨み節とかもないし、全然じめじめしていない。文句をいうわけでもないんです。

しかし、冷静に考えると国がない時代の方が長いって、どうゆう感覚なんだろうと。我々からするとやはりまだ理解が難しい部分があります。

K: 日本人ではなかなか感じにくい感覚ですよね。
ポーランドの宗教は?

ムカイヤマ: カソリックですね。ヨハネパウロ2世さん*がローマ法王に選ばれて民主化が一気に進みましたね。

(*ヨハネパウロ2世:ポーランド出身の第264代ローマ教皇。ハドリアヌス6世以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして史上最初のスラヴ系教皇)

K: そうすると、この展覧会にもそうした政治的な意識等は、自然と土台にあるのでしょうか?

ムカイヤマ: 直接的には表現には表れていないですね。基本的にポーランドの方たちは保守的なので、過激すぎる表現をしないようです。

ドローイングというテーマになった経緯としては、キュレーターのプシェメック・ピンタルは、ヴロツワフ美術大学のドローイング学科の教授でして、ドローイングを専任で教えていたことが理由です。そのプシャメックがキュレーションしているので、基本的にはドローイングを軸にしてつくっている展覧会。でも、それも日本とポーランドではドローイングの捉え方が違うと感じます。ヴロツワフ美術大学は、ドローイングでディプロマが取れるそうです。

K: ドローイングでディプロマが取れるんですか。

ムカイヤマ: ドローイング=鉛筆を使ってデッサンをしますとかそういうことではなくて、個人が何かしらの痕跡を残せる一番最初の所作としてとらえた場合に、それはただのテクニックではなくて個人と外部との関係性を照射できる方法なのではないかという考えがあります。そして、ドローイングに対する考え方の違いも、日本とポーランドの違いとなって表れるため、その表現の違いも展覧会の見どころだと思います。

K: なるほど。日本の美大の教育はフランスから入ってきているから、おそらく日本の考え方も西ヨーロッパ寄りなんでしょうね。デッサンとドローイングの考え方というのは日本では微妙に違いますよね。

工藤: そう。デッサンはやっぱり彫刻や油絵の前の副産物というか、訓練というか。
ドローイングはドローイングでまた違うかな、と思います。

ムカイヤマ: その後フランスから始まったデッサンが、美術キャピタルがアメリカに移ったことで、デッサンがドローイングになりました。日本では、その両方が並行して存在していますが、ポーランドではちょっと違う。日本では、デッサンは練習で、ドローイングは別のものという考えが日本にはありますよね。日本は独自に解釈していると思います。
ポーランドでは、ドローイングはデッサンと同じ意味あいがありつつも、決して練習などではなく、ドローイングというカテゴリが成り立つくらい、体系として成り立っている形だと思います。

K: そもそもどうして日本と組むことになったのでしょうか?

ムカイヤマ: キュレーターのプシェメックもダニエラも日本文化がすごく好きだそうです。
あるとき「なぜ日本なの?」と聞いたら、彼はこう答えました。あるとき、ポーランドで日本の弓を構えたら、構えた瞬間自分の中から声を聴いた、とのこと。全く他文化の全くちがうトラディッショナルな所作をやっているという感覚ではなく、わたしはこれを知っている、と思ったらしいです。昔からわたしのなかにあったものであると確信したそうです
それで、ヴロツワフ美術大学の中でそれをいろいろ話していた時に、それと同じ感覚だったのが学生だったダニエラだった。そうして2人とも日本に興味を持ったそうですね。だから、最初ポーランド側から日本にアプローチがあった。

それで、それをやっているうちに、ぼくたちもだんだんとポーランドの魅力に気づいていったんです。はじめは、1989年のポーランドの民主化についてあまりにも知らなかった。1939年のドイツ侵攻というのは有名ですけど、それ以前にも分裂があったというのは調べてみないとわからなかったことですね。ヨーロッパにありながら列強国とは全く違う文化があるというのは、とても興味深いと思いました。

話を現代に移すと、ヨーロッパは移民を受け入れるとか受け入れないとかそうゆう話もありますが、ポーランドは移民を拒否しているんですよね。でも、これまでの経緯を踏まえると、そうした決断をする理由はわからないでもない。まだ民主化して約30年しか経っていないですからね。

K: 私は、以前ミュシャ展を観に行きましたが、スラヴ民族の成り立ちについて描かれていましたね。驚くほど大きな作品で、まるでミュシャの魂そのものといった作品でしたが、今こうしてお話をお聞きすると、その理由が分かった気がします。
あれだけ大きな連作を描いて、しかもあまりたくさんの場所には出さずに大切に保管していたというのは、まさに民族の記憶を残した最たる例ともいえるのでしょうね。

■それぞれの作品について

K: 今回の展示の内容について教えてください。

工藤: わたしは「~人」という定義について考えています。「~人」といったときに、その定義は、習慣を共有していることなのか、国籍なのか、「~人」というのを証明することは難しいのではないか、と考えています。


<工藤春香作品>
 

「~人」という意識が生まれる境目は国の原初的な部分にあると思っています。世界中、様々な国に神話があり、例えば日本はイザナギ・イザナミの国生みの神話などが代表的ですよね。日本のそのイザナギとイザナミが生んだ子供は水蛭子だったんですよね。だから流しちゃったんですけど、もし水蛭子が生きていたらどうなっていたのかなとか、そうしたことを考えています。

あと中国に山海経というのがあり、中国ができる以前の妖怪たちについて描かれているものがあります。その妖怪と水蛭子がもし出会っていたら?とかそういうことをドローイングの連作と、ビデオ作品で表現する予定です。


<工藤春香>
 
 

林: 私はもともと、社会や人間がつくっている共同体を俯瞰でみるということに興味があります。「ミーム」という概念がありますね。文化を形成する情報は、伝播し遺伝子のように進化していくという考え方があって、例えばフォークロアだったり民間伝承だったり、すごく簡単なものだと、昔話に落とし込まれていますが、その構造って世界各地に共通の構造があるんです。ただのおとぎ話ではなくって、その当時の歴史だとかその地域の社会認識とか根源的な欲望だとか、それらが色々な表象で落とし込まれていて、共通の表象で表れています。


<林 雅子 作品:orbits, locations, structures _ no.2_basalt, QAPF diagram 2017 364_515mm Ink on paper>
 

まずそこが起点としてあって、今回は異類婚姻譚を扱っています。
異類婚姻譚とは、例えば「鶴の恩返し」や、奥さんが蛇だったとか、旦那さんが蜘蛛だったとかいう物語。国内外のおとぎ話を調べていると、たくさんあるんですよね。でも、やはりキリスト教が入ってくると、今まであったものが淘汰されてしまう。キリスト教では、神の意向がなく何かに変身するということは考えにくいんです。だから例えば、神の意向があって元々人間だったものが動物になるとか、美女と野獣とか蛙の王子様などは原型があまり残っていないのですけど、何かしらの形で伝承されている。


<林 雅子>
 

鶴の恩返しのような「見るな」の禁忌も世界中にあるフォーマットですね。信仰にもつながっています。寺院の御開帳というのはいい例ですね。開帳するまでは仏様は見られないのですが、普段は見られなくても、見えないものへの尊敬を抱き、みんなお参りをしている。様々な宗教で、やはり尊いものは見えない、あるいは見てはいけないといった風習は残っていますね。
そういったものをベースにして、共同体にとっての外部と内部の交わりを探っていくと、もともと入れるつもりはなかったのだけどジェンダーロールというものも浮かび上がってきたので、そうったものを入れていこうと思っています。

工藤: 今初めて話を聞いたけど、共通する部分があって面白い。元々わたしは妖怪とか好きで。水木しげるとか、河童の三平とかものすごく好きなんです。何か違う世界のものと交わるという世界すごく興味があって。遠野物語とか、あれもやはり異類婚。

林: 妖怪も社会的な実際あるものを投影していますよね。例えば妖怪の代表例「ひとつ目」は、製鉄に関わるひとの表象だった側面があったと言います。片足でふいごを踏んで、片目で火をみるので、かつては脚や目に障がいが出やすかったりとか。

工藤: それを聞くと、また共通する部分が見つかりますね。わたしは昨今障がいのある人についてテーマにして作品をつくっていたんですけど、水蛭子も日本初の障がい者なわけですよ。でもそれは、失敗だったといって流されちゃって。今は島になったけれど。水蛭子がながされていなかったらどうゆう国になっていたのか、淡路島が流されていなかったら何になっていたかとか…想像しています。

林: 障がいをもって生まれた子供は、昔は地域によって扱われ方が異なっていて、「福子」といって、この子は幸運の子供だと大事にされた場合も、その逆の場合もあったそうです。二面性があるのですが、しかしその外側に出されてしまったものと中心にあって大切にされているものの転換というのは、実はつながっている。
日常のものではない、特別なものとされたから、共同体に入らないとして排除されたり、逆にあがめられたりということが起こってくるんですよね。そうした事例というのは、各地にありますね。オセアニアのある部族の族長は祭りの日だけ芋を投げつけられるという習慣だとか。日本の中世では、物乞いの人は年末には物凄く歓待されて、神の使いだと言われたりとか。力関係には転換があるのです。それには共同体のバランスを取るという役割もあるそうです。

工藤: あとは、自分が影響を受けた本で、「青い芝の会*」というのがあって、障がいを持っている人を社会的に可視化するという運動が1960~70年代にありました。我々はふつうに生きているし、移動もしたいんだ、普通に人間としての権利を与えろっていって運動を起こしたそうです。座り込みや抗議をしたり、過激な運動だったようです。

(*「全国青い芝の会」:障害者のうち、脳性麻痺者による問題提起などを目的として組織された障害者団体)

これから見えてくることは、マジョリティからマイノリティに進んで歩み寄るということはなくて、マイノリティからマジョリティに自分たちの存在を認めてほしいとマジョリティの中に普通に入っていけるようにするという歴史がある。
つまりマイノリティって、可視化されにくい。可視化されにくい存在というのは何なのか、障がいとか被差別とか、国の制度についてここ3年くらいはずっとそういったことを考えています。

K: 似ている部分がありつつも、お二人とも微妙に起点が異なるのが面白いですね。

武田: 僕は「身」という言葉をキーワードにしています。身につく、身を落とすとか、身を清めるとか。二元論的な分割の仕方ではなくて、日本的なニュアンスの解釈で身というものから発展させた身体と心と社会の結節点として「身」というのがあって。つまり「身」というのは社会的なんですよね。その辺の考え方に今傾倒しています。


<武田 海 作品:瓶の音>
 

僕の場合は、工藤さんとは違って、広く浅くになってしまうんだけど、「身」から発生した、KKK(白人至上主義)をフェミニズムの運動に絡めて描いてみたりとか、、個人的な視点から社会を見る上で身という概念を転用している社会を眺めながら描いていて今まさに形にしようとしているところです。ポーランドでもやってみたいなと思っています。


<武田 海>
 

ムカイヤマ: 僕は、以前から絵画の制度や絵画のメディウムそのものをモチーフにして、社会に発生しうる関係性に見立てその関係性の境界面を探る作品を制作する、ということをやっています。今回もそれと似たような感じで、今回は線(LINE)についての作品を作ろうと思っています。


<ムカイヤマ達也 作品:「1000の面」,194×162cm, キャンバスにアクリル絵具, 2017>
 

元々あった線と、人工的な線との違い、認識の違い。例えば、日本列島の場合は、日本列島の島の形に線があるけど、ヨーロッパは人工的にひかれた線、じゃないですか。特にポーランドの場合はその線が何年単位、何十年単位で人工的にかわっていくということがあったけども、でも人はあまりそうはとらえないというか。簡単にペインティングがこうゆうものだと内在化するのと同じくらいその線の存在は内在化されやすい。


<ムカイヤマ達也>
 

今回は15枚のキャンバスを使って、偽物の境界線と実際のキャンバスの線というのがごちゃまぜになるような構造物をつくります。キャンバスが書かれている、人工の線と、本当の線、でもそれをどっちがほんものととるかは認識の違いというか。

K: なるほど。それは、見る側にとって、それまでの認識の中で無意識のうちに内在化させてしていたものを顕在化させるようなことになりそうですね。

来年はポーランドの国交100周年とのこと。ポーランドとの文化交流は、新しい日本の文化にも気づかせてくれることになりそうだ。
我々は何者で、どこから来たのか?アイデンティティとは何か?そもそもアイデンティティとは人間が生み出した見えない概念であるが、しかし、人間は自分が何者であるのか、思うよりも根深くそれに依拠している。

ポーランドと取り組むこと、ポーランドの文化に触れること、そのものは、単にポーランドそのものを知るだけではない。きっと、日本人である自分たちは一体何者なのか、我々の中に内在化している無意識はどこにあるのか。むしろそういった我々の内側と向き合う機会になるはずだ。

■「Limited Vision」日本側 参加アーティスト

坂光敏
1971年生まれ。2003年武蔵野美術大学造形学部油絵科卒業。
2005,2006,2007,2010,2011,2012,2014,2017 個展 アートトレイス・ギャラリー/両国。 2009 グループ展 「サイボーグの夢」(長沢秀之氏企画) アートトレイス・ギャラリー/両 国。2013 2人展「世界の重さ、最初 の手ー高木秀典・坂光敏展」(松浦寿夫氏企画)なび す画廊/銀座。他、個展・グループ展多数。平面作品、アーティストブックの制作に加え、 2011年からギャラリーの壁面と床面などを使用して1日数時間・約1ヶ月間毎日描き続け、 その制作時間の全てをYOU-TUBE等でライブ配信する巨大なライブ・ドローイング作品を 開始。ポーランドのギャラリーや那須の温泉旅館の一室でも同様の作品を発表(那須の展示 室は宿泊可能)。 2017年ヴロツワフ-東京、二国間交流交換展「DOUBLE LINE」展を開催。
burnmitsutoshi.wixsite.com/info

ムカイヤマ 達也
1978年生まれ、東京都在住。2007年より独学。 絵画の制度やメディウムを、社会に発生しうる関係性に見立てその関係性の境界面を探る作 品を制作。絵画を制作する身体の現実性と、絵画の虚構性の間の横断行為を、絵画自体と絵 画を用いたインスタレーション作品によって表している。昨今では、「分断」をテーマに共 同体の制約と個人の自由の共存を、絵画の制度を用いて表した「画布を分つと二つになる」展, Art Trace Gallery(2015),「プロジェクト絵画と嘘の積分」展, awai artcenter (2017), 「乱離情景」展, アンフォルメル中川村美術館(2018)などがある。2016年夏に開催した絵画存在を問い直す展覧会 「絵画検討会2016」の展覧会本である『絵画検討2016-記録と考察、はじめの発言』を刊行。2017年ヴロツワフ-東京、二国間交流交換展「DOUBLE LINE」展を開催。東京ワンダーウ ォール(2009,2010,2012)入選、損保ジャパン美術賞2013入選、等。
https://mukaiyama-tatsuya.weebly.com

工藤 春香
1977年生まれ。2002年東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。 人間が制御できない、自然のエネルギーや重力などを史実や場所のもつ特性と重ねて表現する。時間軸を表すために絵巻形式の絵画や、自身の身体性が直接表れる5メートルの作品など大作が多い。近年は史実と資料を元にしたインスタレーション作品など、自身のイメージ だけでなく社会構造と歴史を絵画とインスタレーションで再構築する作品なども制作している。また、自身で企画、キュレーションを行い美術のある場所として定着していない場所で グループ展を行うなどもしている。代表的なグループ展では、かつて銭湯だった場所(松の 湯二階)で行った「おまえはどうなんだ」展、「柔らかな器」展。個展では1940年に日本 で行われた国家事業について資料をもと
に制作をした「紀元二六〇〇年―西暦2020年棄て たのは私、棄てられたのは私」がある。他、東京都のエマージングアーティストに選ばれト ーキョーワンダーサイト本郷二階で行った「ラブレターフロム穴凹」など。他多数。2015年 よりアートトレイスギャラリーに参加。2017年ヴロツワフ-東京、二国間交流交換展 「DoubleLine」展を開催。

林雅子
1979生まれ。2002年、早稲田大学人間科学部人間基礎科学科卒業。専攻の文化人類学に加え、社会学、認知心理学、生物学を横断的に学ぶ。2003年より作品を発表。人間科学の視座より、普遍的とされる法則に個人や地域の歴史を透過させ、有機的な連関と確率論的独立性を照射することを試みる。主な個展に、2007年「雲路を渡る/週末芸術vol.4」HAT(栃木)、2016年「フラクタルのポリフォニー」アートトレイスギャラリー(東京)等。グループ展に、2008年「ワンダーシード 2008」 トーキョーワンダーサイト渋谷(東京)、2015年「形象への眼差し、光景の眺め」 アートトレイスギャラリー等。展示のほか、音楽家や商業店舗等との共同制作も行う。2017年ヴロツワフ-東京、二国間交流交換展「DOUBLE LINE」展を開催。
http://www.masakohayashi.info/

オル太
2009年に結成。1980年代生まれの6名の美術家 (井上徹、川村和秀、斉藤隆文、 長谷川義朗 、メグ忍者 、 Jang – Chi ) からなる表現集団。文化を支える集合的な記憶や人間の根源的な欲求に迫る作品を展開する。2011年に第14回岡本太郎現 代芸術賞展で岡本太郎賞 受賞。
井上 徹 1986年、神奈川県生まれ。
2010 年多摩美術大学絵画学科油画専攻卒業。
川村和秀 1984年、静岡生まれ。
2012 年多摩美術大学大学院美術研究科絵画専攻修 士課程修了
斉藤隆文 1986年、千葉県生まれ。
2012 年に多摩美術大学大学院美術研究科油画研究 領域を修了。
長谷川義朗 1984年、福井県生まれ。
2010 年多摩美術大学絵画学科油画専攻卒業。
メグ忍者 1988年、千葉生まれ。
2012 年多摩美術大学美術学部絵画学科油画専攻卒 業。
Jang-Chi 1983年、茨城県生まれ。
2010 年多摩美術大学絵画学科油画専攻卒業。

丹羽良徳
1982年生まれ。ウィーン在住。作品タイトルに明示されるスローガン的で自己説明的で、そしてほとんどの場合は非生産的で無意味な行動を公共空間で実現する過程の一部始終を映像記録に収めることによって、制度化された公共概念の外縁を描く。近年の展覧会として「steirischerherbst’18」(グラーツ, 2018)、「瀬戸内国際芸術祭2016」(直島, 2016)、「MAMスクリーン005:丹羽良徳映像集」(森美術館, 2016)、「歴史上歴史的に歴史的な共産主義の歴史」(Edel Assanti, 2015)、「愛すべき世界」(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館, 2015)、「あいちトリエンナーレ2013」(あいち芸術文化センター他, 2013)、「六本木クロッシング2013展ーアウト・オブ・ダウト」(森美術館, 2013)、「ダブル・ビジョンー日本現代美術展」(モスクワ近代美術館、ハイファ美術館, 2012)など。カディスト財団(パリ/サンフランシスコ)、ヴロツワフ現代美術館(ポーランド)、森美術館(東京)、一橋大学(東京)などのコレクションに作品が収蔵されている。
http://yoshinoriniwa.com/

武田海
バルセロナ在住中の初期は、「何気ない時間の集積」を視覚化することをテーマに、物を介して「時間」との対話を重んじていた。消費社会に当たり前にある物をピックアップし文字通り集積する手法などにより、個々の物の社会における異なった「時間」のイデア化を図り作品化していた。主に消費社会、高度資本主義社会に対する問題意識をはらんだ制作を行った。中期は帰国し、身体性に軸足を移し、初期に行った「時間」のテーマを継続(屋外彫刻を侵食する雨だれのシミ模様をフィーチャーした彫刻の表面を作り出し)しつつ社会的テーマの人物彫刻の制作を中心に活動する。日本のサブカルチャー、ミスユニバース、女性問題、日本の神話、福島、原発、ファシズム、医療大麻など様々なサブジェクトをテーマに制作を行った。
最近は中期で行った身体性を掘り下げ、大和言葉からの「身」に注目し、哲学者・市川浩の「身分け」の概念を援用し、「身」を心と体と社会の結節点として、「身に着く」「身銭を切る」「身が入る」などの語法を養分に「社会と裸体」をモチーフに現在の日本における身体性を掘り下げるべく、ドローイングを中心に制作している。ヨーロッパ各地の美術館で展示。2012年第15回TARO賞入選。

開催概要
「Limited Vision」
日程:2018.10.18-11.25
会場:National Forum of music Wrclaw
会場URL:http://nfm.wroclaw.pl/en/home/NFM
案内動画:https://www/youtube.com/watch?v=9gdlbkZsw-o

オル太によるパフォーマンス(終了)
日程:10/19 17:30-
会場:BWA https://bwa.wroc.pl/

<ポスターについて>
カバービジュアル:工藤春香
デザイン:piotr kmita http://piotrkmita.com

■参加アーティスト

Maciek Baczyk
Marta Borgosz
Mitsutoshi Burn
Piotr Blazejewski
Jacek Dluzewski
Masako Hayashi
Lukasz Huculak
Aga Jarzab
Marek Jakubek WINGLOTER
Jacek Jarczewski
Janusz Jaroszewski
Eugeniusz Jozefowski
Piotr kmita
Bogna Kozera-Radomska
Haruka Kudo
Wojciech Lupa
Daria Milecka
Lukasz Morawski
Tatsuya Mukaiyama
Zdzislaw Nitka
Yoshinori Niwa
OLTA
Sylwia Owczarek
Marlena Promna
Tomasz Pietrek
Prezmek Pintal
Wojciech Pukocz
Dy Tagowska
Kai Takeda
Piotr Tyszkowski

■コンセプト

2017年に開催された日本・ポーランド交換グループ展示「DOUBLE LINE」に続き、その第二弾となる「Limited Vision」展。両国の作家は、主にドローイングとその他のメディアを融合した作品制作、特に都市空間とその年の歴史、同時代性に関連した作品制作に関心を寄せ、芸術の根源的な手法であるドローイングを実に様々な方法で用い、表現するアーティスト達。

ドローイングは、日本およびポーランド美術の伝統において重要な役割を果たしてきました。そして、今日は、我々は最も直接的で個人的な性質を持つコンセプチュアルな芸術的手法としての、ドローイングの復興を目にすることができます。このような現代的ドローイングに焦点を当て、東京では、7~8月にアートトレイスギャラリーを含む3開場で、ポーランドのヴロツワフでは10月に2会場で、同アーティストによる展覧会を開催します。

本展のアーティスト達は作品内(制作形式やコンセプト)という一定の限られた領域と、ダイナミックに変化する現実との両方を探求しています。脳内に描くビジョンと網膜的なビジョンはビジュアルアーティストに
とっての研究課題であると同時に実験器具でもあります。アーティストのビジョンは、大きな物語へのアンチテーゼを探し常に自らの経験を更新するために、現実の隠れた側面をみるに格好な観測地点を見つけ出そうとします。そこでLimited Visionのキュレーターは「結果」すなわち利益と損失について自問します。その差異の全体をつかむことができなければ、それ相応に備えなければいけません。

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